Ups and Downs (3)

生命科学部 准教授:木村 修平

Photo from Flckr
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英語学校を飛び出して正規生としてレギュラーの授業を履修しはじめた私はいきなり大きな壁に直面しました。考えてみれば、英語学校の授業やTOEFL対策で私は「英語を学ぶ」ことには慣れていましたが、「英語で何かを学ぶ」のは初めてだったのです。

モノクロームな日々

春学期は1月上旬から5月上旬まででした。ミシガン州立大学の正規生として過ごした記念すべき最初の学期だったのですが、正直、ほとんど何も覚えていません。というのも、この4ヶ月間、私がやったことと言えば平日は教室と図書館と寮を行ったり来たり、週末は部屋で平日できなかった範囲の予習と復習くらいで、思い出に残ることは何もなかったのです。

おまけに大学の学年暦に祝祭日が非常に少なく(春学期は1月のマーティン・ルーサー・キング・デーくらい)、教員が授業を休講することもほとんどなかったので、月曜から日曜まで判で押したような生活でした。たまに日本のカレンダーを見るとゴールデンウィークなど平日にたくさん休日があるのが羨ましく思いました。

余談ながら、立命館大学は祝祭日でも授業を行うので学生からは不評のようですが、私は留学中に平日に休まない生活を続けたため、一向に気にならなくなりました。むしろゴールデンウィークもすべて授業日でいいと思っています。

学期の最初のころ、もし時間に余裕があれば趣味の絵画を楽しむために美術系のクラブやサークルに入ってみようかななどと考えていましたが、そんな余裕はどこにもありませんでした。新入生勧誘に湧く華やいだ学内の雰囲気とは全く無縁の、地味で単調で、モノクロームな日々が続きました。

春学期の成績がどうだったか、今となっては記憶が定かではないのですが、たしか統計学と数学と経済学はまぁまぁ良い成績だったと思います。問題は社会学で、たぶんギリギリで受かりました。授業の後半はリーディング課題が追いつかずレポート課題では言いたいことの半分も書けず本当に散々でしたが、先述したようにミシガン州立大学の学費は単位数によって決まりますので、絶対に落とすことだけはしたくなかったのです。

学部の格差

春学期が終わってからも私の苦闘は続きました。編入学生だったとは言え卒業要件単位はたっぷり残っていましたし、なるべく早く卒業したかったので、夏学期と秋学期にも授業を詰め込みました。

この時期、興味の赴くままに色々な授業を履修しました。生物学、天文学、心理学、国際関係学、歴史学…どの授業にも楽しい思い出と辛い思い出がありますが、中でも鮮明に覚えているのは会計学の入門クラスを履修したときのことです。

財政学や経営学などビジネス系の専攻に友人の多かった私は会計学の初歩くらい学んでおくべきだと勧められ一番簡単な授業を履修したのでした。会計学の授業はビジネス学部のビルディングで行われたのですが、その立派な建物と教室に度肝を抜かれました。

日光がさんさんと入るガラス張りの建物、ピカピカの教室、学生の座る椅子ですらフカフカの高級そうな椅子で、リクライニング機能までついています。私が所属していた社会科学部のビルディング(写真)は古ぼけていて、椅子は机と一体型の年代物。ビジネス系の学部は卒業生が事業で成功したら大学に多額の寄付をするのだそうで、たとえばミシガン州立大学の学内にケロッグセンターというホテルがあるのですが、これはコーンフレークでおなじみのケロッグ社の社長が卒業後に寄付してくれたのだそうです。

おなじ学費を支払っているのにこれほど待遇が違うのかと、会計学の授業に行く度に私はなんだかみじめな気分になったものでした。

塔が崩れた日

気がつけば2001年9月、渡米して2年が経過していました。苦労の甲斐あってか、履修した授業の単位はすべて取得できていました。友人も増え、英語にもある程度自信がついて、アメリカでの生活にだいぶ馴染んできたかなと思っていた、そんなある日の朝。

友人がクルマを修理に出すというので私の運転でDODGEのカーディーラーに向かっていたとき、ふいにラジオが不穏なニュースを伝えました。「ニューヨークのワールドトレードセンタービルに航空機が激突したらしい」。その前々月、日本から遊びに来た妹とニューヨークを訪れたばかりだった私は驚いてボリュームを上げました。操縦ミスによる事故だろうか?

カーディーラーに着くと、店員も客もテレビの前に集まっています。誰もが不安な顔をしています。その場に居た誰もが「まさか」と思いつつ、同時に「もしや」と疑いを否定できない気持ちを抱えていましたが、ついに年配の男性客が皆の気持ちを代弁するかのようにハッキリと言いました。「テロではないか?」

急いで大学に戻ると、大騒ぎになっていました。当時は携帯電話がアメリカで普及し始めた時期で、まだ持っていない学生も多く、公衆電話の前に長い行列ができていました。家族の安否を確かめている学生、受話器を握りしめて号泣する学生、電話の向こうの誰かを懸命に励ましている学生。ホールやカフェテリアには大勢の学生や職員が集まり、パニック状態になっています。授業はどうなるのか、戦争が起きるのではないか、2機目が突っ込んだらしい、ペンタゴンも攻撃されているらしい、軍隊が出動するらしい…真偽不明の情報が飛び交っていました。

そのころ大学の近くに友人と部屋を借りていた私はひとまずアパートに戻り、パソコンの電源を入れました。インスタントメッセンジャーに日本の家族や友人から安否を確かめるメッセージが届いています。とりあえずテレビが観たかったのですが、私たちの部屋にはテレビがありませんでした。私は部屋を飛び出て、向かいの部屋のドアを叩きながら大声をあげました。「テレビを観せてくれ!」

向かいの部屋に住んでいたのは5人のインド系留学生で、全員が女子学生でした。私は彼女たちに混じってテレビの前に座り、CNNのキャスターが顔をこわばらせて状況を説明している様子を観ながら、非現実的な感覚を覚えていました。そして、アメリカという国がこの日を境に新しい時代に突入するのだろうとボンヤリ考えていたのでした。

2001年9月11日、ミシガン州立大学は全学生宛に学長名でメールを配信し、午後の授業をすべて休講にするという決定を伝えました。私が留学中に体験した休講は後にも先にもこのときだけでした。(つづく)